※この記事は、私自身の体験と記憶をもとに書いています。
※治療内容や経過は人によって異なります。
※治療については、必ず主治医や医療機関にご相談ください。
10月の終わり、妹は腹膜播種の影響で腸閉塞になりかけ、再び入院しました。
ちょうどその頃、私は足を痛めていて、思うように妹に会いに行くことができませんでした。
会いに行けない日が続く中で、私の中にはずっと、ひとつの問いが残っていました。
妹は、本当に余命を知りたかったのだろうか。
今回は、11月に妹の余命が3か月だと聞いてから年の暮れまでを中心に、手術後に初めて余命を聞いたときのことも振り返りながら書きます。

足を休めながら、離れた場所にいる大切な人のことを何度も思い浮かべていました。
弟から聞いた、妹の余命
私が妹の余命について初めて聞いたのは、手術のあとでした。
弟から電話がありました。
電話の向こうの弟の声は、低く静かで、泣きたい気持ちをこらえているように感じました。
「余命は3か月から1年」
そう聞かされました。
ショックで泣きました。
「そんなに悪い状況なんだ」と思いました。
それでも心のどこかで、まだ何かできることがあるのではないかとも思っていました。
なんで、あんなに元気だった妹が、こんなことになってしまったんだろう。
その後、妹も弟と一緒に、余命について話を聞いたことを知りました。
それを聞いたとき、私は思いました。
「そんな残酷な話を、妹にしなくてもいいのではないか」
こう思ったのには、理由があります。
私自身、乳がんの治療を受けたときに、薬の効果がなければ余命は2年から3年だと告知された経験があります。
その言葉を聞いた瞬間、何も考えられなくなったことを覚えています。
だから、妹も余命を知らされたと知ったとき、本人はどれほどつらいのだろうと思いました。
余命が決まっているのなら、知らないほうがいいこともあるのではないか。
そう考えていました。
そして11月、今度は弟から、抗がん剤治療がもうできなくなったこと、そして余命は3か月だと聞きました。
最初に聞いたのは「3か月から1年」でしたが、11月に聞いたのは「3か月」でした。
あと3か月。
会える時間は、もうそんなに残っていないんだ、と感じました。
その間だけでも、妹ができるだけ痛みや苦しみなく過ごせたらと願いました。

その知らせは、受け止めきれないまま心に残りました。
余命を知らされたことを、妹自身がどう受け止めていたのかは、私には分かりません。
知らないほうが楽だったのか、それとも、知っておきたかったのか。
妹は、本当に余命を知りたかったのだろうか。
この問いは、今も私の中に残っています。
会いに行けないまま、LINEでつながっていた
その頃、私は足の靱帯を傷めて自宅で療養していて、思うように妹に会いに行けない日が続いていました。
それまで私は、「痛みはどう?」「お薬はもらってる?」と、体調や治療のことを妹に聞いていました。妹から治療について聞かれることもありました。
11月の中旬、妹からLINEが届きました。
お腹に痛みが出てきて、痛み止めをもらっていることが書かれていました。
私は心配になり、
「我慢しないでね」
と送りました。
妹から返ってきたのは、
「我慢しないようにします」
という言葉でした。
妹らしい返事だと思いました。
そして同時に、ほかに何もしてあげられることがなく、そんな言葉しかかけられない自分を、情けなく思いました。

会えない時間も、画面の向こうで気持ちをつないでいました。
妹の体調が悪くなるにつれて、LINEを送る回数も少しずつ減っていきました。
返事をすることが負担になるのではないかと思うと、LINEを送ることにも迷い、何と声をかければいいのか分からなくなりました。
それでも、
「食べられるものはある?」
と送ることはありました。
会えない間も、そんなやり取りを続けていました。
12月、妹に渡すソックスを選びに行った
12月20日ごろ、妹に会えることになりました。
何かプレゼントを持っていきたいと思い、ソックスの専門店へ選びに行きました。
店には色鮮やかなソックスが並び、クリスマスソングが流れていました。
入口の目立つところには、赤や緑を使ったプレゼントの箱の飾りが置かれていました。
妹はもともと、派手なものを身につけるタイプではありません。
派手すぎないものの中から、ところどころにクリスマスらしさを感じるものを探しました。
妹に合いそうなものを探していると、以前、妹とグランフロント大阪へ出かけた日のことを思い出しました。
グランフロント大阪がオープンした頃、一緒に出かけ、二人で香りの良い石鹸を探したことがあります。
もう一緒に行くことはできないんかな。
そう思うと、泣きそうになりました。
「これでいいかな」と何度か確かめながら、妹に渡す一足を選びました。

一足ずつ見比べながら、妹に似合うものを探していました。
ようやく会えた日、妹がくれた「可愛い」
ようやく妹に会うことができました。
選んだソックスを渡すと、妹は、
「可愛い」
と言ってくれました。
想いを込めて選んだソックスを手渡せて、本当に良かったと思いました。

会えた日のやり取りは、小さくてもあたたかな記憶として残りました。
妹にクリスマスプレゼントを渡すのは、これが初めてでした。
長いあいだ親しくしてきて、一緒に出かけたこともあるのに、クリスマスに何かを渡したことは一度もありませんでした。
余命を聞いていた私の頭に、そのとき浮かんだのは、こんなことでした。
初めてのクリスマスプレゼントが、最後になるんだ。
そう思いながら、妹と話をしていました。
その日は家族もそろっていたので、私は長居をせず、妹の顔を見て帰りました。
帰るときは、妹に「またね」と言って帰りました。
本当は、もっと話したかった
今振り返ると、もっといろいろな話をしたかったという思いが残っています。
病気のことではなく、孫ちゃんのことや、好きなもののこと、昔一緒に出かけたときのこと。
そんな何気ない話を、もっとしたかったです。

思い返すたび、まだ二人で訪れてみたかった場所がいくつも浮かびます。
一緒に買い物をしたり、何かを選んだりする時間も、もっと持てばよかったと思います。
妹に誘われた講習会にも、参加すればよかったと思いました。
あの頃はまだ、いつもの妹と話ができた
妹の体調は、少しずつ悪くなっていました。
それでも、11月にはLINEの返信があり、12月に会ったときにも、妹と言葉を交わすことができました。
今振り返ると、あの頃はまだ、いつもの妹と話ができていたのだと思います。

あの頃の表情や声は、今も記憶の中に残っています。
年が明けると、妹の様子は少しずつ変わっていきました。
次回は、妹が緩和ケアの病院へ入院してからのことを書いていきます。
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前のお話
第3話では、抗がん剤治療を続けながら、妹が自宅で過ごせた日々について書いています。
Instagramでも、乳がんの経験や夫・妹とのこと、その後の暮らしについて発信しています。
この記事を書いた人 きゃんばぁば|がん その先へ
自身の乳がん治療を経験し、その後、義理の妹の膵がん、夫の食道がんを家族として支えてきました。
義理の妹とは長く親しくしていて、私にとっては妹のような存在でした。
このブログでは、患者として、家族として経験したことを、自分の言葉で記録しています。
その後の暮らしや、これからの生き方についても書いています。
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