2013年、私はトリプルネガティブ乳がんと告知され、術前抗がん剤治療を受けました。
パクリタキセル、そしてFEC療法。
約6か月にわたる抗がん剤治療を終えたあと、検査結果を聞いた診察室で、主治医からこう告げられました。
「がんが見えなくなっています」
その言葉を聞いた瞬間、体の力がふっと抜けました。
もちろん、これで治療がすべて終わったわけではありません。
私にはこのあと、乳房温存手術と放射線治療が控えていました。
それでも、画像上がんが見えなくなったと聞けたことは、苦しかった抗がん剤治療を乗り越えてきた私にとって、大きな希望でした。
そんな手術前の時期に、母が私に言ってくれたのです。
「手術の前に、気分転換に伊勢神宮へ行こうか?」
それは、抗がん剤治療を頑張った私への、母からのごほうび旅でした。
母からのプレゼント|「伊勢神宮へ行こう」の言葉がくれた楽しみ
乳がんと告知されたとき、主治医からは抗がん剤治療について説明を受けました。その中で、がんが画像上見えなくなる可能性についても聞いていました。

「がんが消える確率は38%です」
(※確率や治療効果は当時の私の場合であり、サブタイプや個人差があります)
そう言われた日から、約10か月。
その間、私は目の前の治療に向き合うことで精一杯でした。
副作用で体がつらい日。
髪が抜けていく不安。
味覚が変わって、食べることが楽しめなくなった日。
白血球の数値を気にしながら過ごした日々。
「いつかまた、元気になって旅行に行ける日が来るのかな」
そんなことを思いながらも、当時の私は、先のことを明るく想像する余裕があまりありませんでした。
母から「伊勢神宮へ行こう」と言われたとき、本当にうれしかったのです。
それは、ただの旅行の誘いではありませんでした。
治療ばかりの日々の中に、久しぶりに差し込んだ光のような時間でした。

「病気のことを少し忘れて、楽しんでもいいんだ」
そう思えたことが、何よりうれしかったのを覚えています。
楽しみすぎてパンフレットまで作った、手術前の三重旅行
旅行が決まってからは、宿泊先を探す時間もワクワクしました。
病気になってからは、検査、治療、通院、体調管理。考えることの多くが、乳がんに関することばかりでした。
でもこの時だけは違いました。
「どこに泊まろう」
「海が見える宿がいいな」
「温泉にも入りたいな」
「久しぶりに美味しいものも食べたいな」
そんなふうに、旅行のことを考えている時間だけは、病気から少し離れられました。
たった3人の旅なのに、私はパンフレットまで作ってしまいました。
母と娘と私。3人だけの小さな旅行です。でも、私にとっては大きな意味のある旅でした。
10か月前の私には、こんな日が来るなんて想像もできませんでした。
「旅行の計画を立てることって、こんなに楽しかったんだ」 治療中は忘れていた、そんな気持ちが少しずつ戻ってきました。
行き先は三重県へ|海が見える宿、温泉、美味しい料理を求めて
伊勢神宮に行くことは決まっていたので、行き先は三重県に即決しました。
せっかくなら、海が見える宿がいい。温泉にも入りたい。美味しい料理も食べたい。
そんな欲張りな希望を詰め込んで選んだ宿が、鳥羽にある「The Earth(ジ・アース)」でした。
本当は、近鉄特急しまかぜにも乗ってみたかったのですが、時間が合わず断念。それでも、久しぶりの旅行というだけで十分でした。
日程は3月初旬。1泊2日の三重旅行です。
ちょうど娘の国家試験も終わり、結果待ちのタイミングでした。
私の抗がん剤治療も終わり、手術まで少し時間がありました。母と娘と私、3人の予定も合いました。
すべての条件がそろい、ようやく「楽しむ準備」ができたのです。

「やっと、治療以外のことを楽しめる」
その気持ちだけで、胸がいっぱいになりました。
久しぶりの旅行へ|近鉄特急の中でたくさん笑った時間
旅行当日。近鉄特急に乗り込んだ瞬間から、私はワクワクしていました。
治療中は、病院へ向かう電車に乗ることが多く、外出といえば通院のイメージが強くなっていました。でもこの日は違います。
行き先は病院ではなく、伊勢神宮。そして海の見える宿。
車内では、母と娘とたくさん話しました。くだらないことでも笑えて、何気ない会話がとても楽しく感じました。
「こんなに心から笑ったのは、いつぶりだろう」
そう思うほど、久しぶりに心が軽くなっていました。
抗がん剤治療中は、体だけでなく心もずっと緊張していたのだと思います。
手術はどうなるのだろう。
体力は戻っていくのだろうか。
この先の治療を、また乗り越えられるのだろうか。
そんな不安が、いつも頭のどこかにありました。
でもこの旅では、ほんの少しだけ、その不安を横に置くことができました。
最初の目的地は伊勢神宮|タクシーの運転手さんとの出会い
最初の目的地は、伊勢神宮でした。
駅からタクシーで向かったのですが、その運転手さんがとても親切な方でした。
伊勢神宮に祀られている神様のこと、参拝のこと、神宮にまつわるお話。
車内でいろいろと教えてくださり、その話がとても興味深かったのです。
神宮に着く頃には、ただ観光に来たというよりも、「きちんとお参りしよう」という気持ちになっていました。
鳥居をくぐると、空気が少し変わったように感じました。
静かで、厳かで、背筋が自然と伸びるような空間。
私は手を合わせて、心の中でこう伝えました。
「ここまで来られました。ありがとうございました」
がんが見つかってからの10か月。怖かった日も、泣いた日も、眠れなかった日もありました。それでも私は、ここまで来ることができました。
伊勢神宮で手を合わせた時間は、願いごとをするというより、感謝を伝える時間だったように思います。

静かな空気の中で、ここまで来られたことに感謝しました。
The Earthで過ごした、海と温泉に癒される時間
宿泊先のThe Earth(ジ・アース)は、鳥羽駅から少し高台にある素敵なお宿でした。
部屋に入ると、目の前に広がる海。その景色を見た瞬間、思わず息をのみました。
私たちが泊まった部屋には、露天風呂もついていました。お湯はとても気持ちよくて、肌がつるつるになるような感覚でした。
母も娘も、何度も温泉に入りながら、「気持ちいいね」と笑い合っていました。
料理も美味しく、スタッフさんの距離感も心地よくて、無理なくゆっくり過ごすことができました。
治療中は、体の調子に合わせて過ごすことが多く、何をするにも少し構えていました。
でもこの宿では、ただ海を眺めて、温泉に入って、食事を楽しむ。それだけで、心と体が少しずつほどけていくようでした。
「この宿を選んで、本当によかった」 心からそう思いました。

海を眺めながら、抗がん剤で疲れた体をゆっくり休めました。
10か月ぶりのお刺身|「また美味しいと思える日」が来た
夕食は、新鮮な海鮮料理のコースでした。 実は私は、抗がん剤治療中、主治医から生ものを控えるように言われていました。
白血球の数値や体調を気にしながら過ごしていたため、大好きなお刺身もずっと我慢していたのです。
だから、久しぶりにお刺身を口にした瞬間、胸がいっぱいになりました。

「美味しい……!」
思わず涙が出そうになりました。
それは、 ただのお刺身ではありませんでした。
治療を頑張ってきた私にとって、そのひと口は、「また美味しく食べられる日が来た」と感じられる特別な味だったのです。
味覚障害で、何を食べても美味しく感じにくかった時期。
吐き気で、思うように食べられなかった日。
白血球の数値を気にして、生ものを我慢していた日。
そのひとつひとつが、一気に思い出されました。
そして、目の前には母と娘がいました。
3人で美味しい料理を食べながら、たくさん話しました。
「頑張ったね」
「ここまで来たね」
そんな言葉を交わしながら、久しぶりに少しだけワインも楽しみました。
ほろ酔い気分になりながら、「幸せだなあ」としみじみ感じました。
テラスから見える広い海は本当に美しくて、ずっと抱えていた悩みが少しだけ小さく見えました。
この日のことは、「一生忘れないと思います」
この旅は、少しずつ日常を取り戻す時間でした
がんの告知を受けてから、抗がん剤治療を終えるまでの約10か月。
私はずっと、治療と副作用に向き合いながら過ごしてきました。
その先にあったのは、母と娘と一緒に心から笑い合える時間でした。
伊勢神宮の静かな空気。
海を眺めながら入った露天風呂。
久しぶりに食べたお刺身の美味しさ。
母と娘の笑い声。
何気ない会話。
どれも、治療を乗り越えたあとだったからこそ、深く心に残ったものばかりです。
この旅は、私にとって単なる旅行ではありませんでした。
病気のことばかり考えていた毎日から、少しだけ離れられた時間。
「また、こんなふうに笑えるんだ」と思えた時間。
手術へ向かう前の心を、そっと整えてくれた時間でした。
病気になる前は、旅行に行くことも、美味しいものを食べることも、家族と笑うことも、当たり前のように思っていました。
でも治療を経験したあとでは、そのひとつひとつが本当にありがたく感じました。
治療中のあなたへ|楽しめる時間は、少しずつ戻ってくる
今、抗がん剤治療の途中にいる方。
これから手術を控えている方。
副作用で心も体も疲れている方。
もしかしたら、今は「旅行に行く」なんて遠い話に感じるかもしれません。
私もそうでした。
治療中は、目の前の1日を過ごすだけで精一杯でした。
でも、ひとつずつ乗り越えていくと、気がつけば、少しずつ楽しめる時間が戻ってくることがあります。
もちろん、無理に前向きになる必要はありません。
つらい時は、つらいと言っていい。
休みたい時は、休んでいい。
泣きたい日は、泣いていい。
そのうえで、もし心のどこかに小さな楽しみを置けるなら、それは治療中の自分を支えてくれる力になるかもしれません。
私にとって、この三重旅行はそういう時間でした。
家族へ|そばにいてくれて、本当にありがとう
この旅があったから、私は次の治療へ向かう力をもらえました。
楽しい時間を過ごせたからこそ、
「手術も頑張ろう」
と思えたのです。
旅行は、3度楽しめると感じました。
計画を立てる楽しみ。
旅をしている時間の喜び。
そして、あとから思い出を振り返る楽しさ。
私にとって三重県への家族旅行は、治療後のごほうびであり、手術へ向かう前の心の準備でもありました。
画像上、がんが見えなくなったと聞いても、治療はまだ終わりではありませんでした。
次に待っていたのは、乳房温存手術です。
うれしい検査結果を胸に抱えながらも、手術への不安は静かに残っていました。
次回・第19話では、いよいよ乳がんの手術を受けた日のことを書いています。
「温存か全摘か」で悩み抜いた選択についても、お話しします。
第19話はこちらから↓
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