旅行中は、最後まで元気に過ごしていた夫。
その笑顔に安心していたのも束の間、帰宅した翌日、あれほど元気だった夫の体調が、一気に崩れました。
あまりにも突然の変化に、私の心は追いつきませんでした。
車椅子で綴られた、最後の手続き
体調が急激に悪化する中でも、夫にはどうしてもやり遂げなければならないことがありました。
それは、残される私が、亡くなったあとの手続きに困らないようにと進めてくれていた、最後の準備でした。

「車椅子は心強い存在でした」
重い体を引きずりながら、私のために動いてくれた夫。
その日は息子も付き添ってくれました。
車椅子に座る夫の姿は、昨日までの旅行の疲れとは明らかに違う、深刻な変化を物語っていました。
それでも夫は、書類を前にペンを握りました。
今から振り返ると、がんが進行したあの体で、どうしてあれほど動けたのか不思議でなりません。
きっと、私への強い想いだけが、あの動かないはずの体を動かし、筆圧のない、けれど必死な文字を書かせたのだと思います。
それは、夫が命を削って遺してくれた、最後で最大の「安心」という名の贈り物でした。
売り場で見せた、一瞬の光
帰り道、すっかり疲れている様子の夫が、「どうしても年末ジャンボを買いたい」と口にしました。

いつもの売り場。
そこには、病気のことを忘れてしまいそうな、日常の風景が広がっていました。
窓口で宝くじを受け取った瞬間、夫の頬が少しだけ緩み、柔らかな笑顔がこぼれました。
それは、嵐のような48時間の中で、ふっと差し込んだ一筋の光のような時間。
このあと起こることを、まだ知らないままの、束の間のひとときでした。
宝くじという小さな紙切れに託したのは、お金ではなく、「私と一緒に生きたい」という、夫なりの最期の願いだったのかもしれません。
その一瞬の笑顔を胸に刻み、私たちは一度、住み慣れた自宅へと戻りました。
「もう、楽にして」
自宅に戻り、夕方になった頃。
夫の口から出たのは、「もう病院へ連れて行ってほしい」という言葉でした。
あんなに自宅で過ごすことにこだわっていた夫が、自らそう口にするほどの苦しさ。

「もういいから、早く楽にして」
そう言われたとき、私の心は引き裂かれる思いでした。
まずは訪問看護の方に来ていただき、肺炎ではないことを確認しましたが、容態は刻一刻と悪化していきます。
私は震える手で在宅医療の病院へ連絡し、「明日、緩和ケア病棟へ入院できるように手配をお願いしたい」と伝えました。
夜遅くまで病院と連絡を取り合い、翌朝一番に入院できることを確認するまで、私たちはあまりにも過酷な夜を共に過ごしました。
夫は、息をするのもつらそうでした。
私はそばで、「何かしてほしいことはない?」と声をかけましたが、何もできないまま、眠れずに朝を迎えました。
告げられた現実と、揺れ動く心
翌朝、病院に着くとすぐに検査が始まりました。
長い待ち時間の後、先生から告げられたのは「誤嚥性肺炎」という診断でした。
そして、がんが身体中に広がっているという、あまりにも過酷な現実。
「今回の肺炎の治療に効果がなければ、覚悟をしてほしい」

その言葉に、私はただ泣くことしかできませんでした。
もっと一緒にいたい。でも、これ以上つらい思いをさせるのは嫌だ。
愛しているからこそ、どちらの願いも正しくて、どちらの願いも残酷で。
答えの出ない葛藤を抱えたまま、私たちは緩和ケア病棟での、新しい、そして最後の日々を歩み始めることになったのです。
同じ後悔をしないために。私たちの8ヶ月の全記録を公開しています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
旅行の直後に訪れた急激な体調悪化。
そして緩和ケア病棟への入院。
在宅医療の期間は短く終わってしまいましたが、私たちはその時々で、家族として悩み、迷いながらも、最善を信じて決断を重ねてきました。
その8ヶ月の葛藤と、実際に選択してきたことを、ひとつの記録としてnoteにまとめています。
今まさに不安の中にいるご家族が、私たちと同じ後悔をしないための道しるべとなれたなら。
そんな想いで書きました。
(無料noteで公開中)

きゃんばぁば|乳がんサバイバー/家族の闘病サポーター
乳がんを経験し根治。妹の膵がん、夫の食道がんを家族として支えた実体験をもとに、「患者と家族、両方の視点」で発信しています。
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